散歩中に、野犬達と2度目の遭遇。
確認できる限り3頭いました。
会長と電話で相談し、今後どうするか調整中です。
僕は野犬に関しては素人なので、難しい対応を迫られるかも……。
バランシング・ポイント
いつか動画にするつもりのネタなのですが、少しだけ触れようと思います。
動物の権利と福祉に関して、バランシング・ポイントという言葉があります。
これは一人ひとり異なっていて、だからこそ難しい話なのですが。
僕のバランシング・ポイントについて書こうと思います。
人によっては不快に思うかもしれませんが、ありのままを記します。
僕は、虫が死んでも心が痛みません。
正確に言えば、地に落ちた蝉、捕食されている蝶、スズメバチに襲われるミツバチなどを見たら切ない気持ちにはなります。
ですがそんなミツバチでさえ、家に侵入してきたら容赦なく殺虫剤を浴びせます。
そしてその日の夜、僕は熟睡するでしょう。
僕は、魚が死んでも心が痛みません。
小魚の群れが大型魚類に丸呑みされる様など、むしろ感動すら覚えます。
巨大なサメがシャチに殺される映像を見ても、特に心が動くことはないと思います。
――では、ハムスターは? ウサギは? カメは? インコは?
僕はこの辺りから、悲しさを覚えます。
ですが複雑なのは、ウサギの肉を料理として出されたら、たぶん僕は食べられます(食べたことないけど)。
同様に、イルカやクジラの死は悲しく、儚い思いを喚起しますが、それらの肉も僕は食べられます。
僕が哺乳類で、霊長類であること。
僕が犬好きであること。
僕が幼少期からオタクで、漫画やゲームを好んで摂取していた人種であること。
家庭環境、人間関係、趣味嗜好、主義主張、そして本人の持って生まれた人格と性格、為人。
バランシング・ポイント、ひいては動物の愛護精神は、こういった無意識のうちに形成されるものが多大なる影響をもたらすのではないでしょうか。
もっと大きく言えば、おそらくは国家の風土や国民の気質なども関係してきます。
砂漠型、牧場型、モンスーン型。
そんなのありましたね。
だからこそ、愛護精神の涵養を固定観念に縛られた社会で推し進めるのは、並大抵のことではないのです。
戦って死ねる者と、戦う機会すら与えられない者
一時期、「シー・シェパード」という環境保護団体の名前をよく聞きましたよね。
僕はジャーマンシェパードの動画を見るのが好きだったので、検索妨害になってずっと鬱陶しいと思っていました。
(;´Д`)
彼等は「クジラを食べるなんてとんでもない!」と主張していましたが、僕はそのたびに、子供の頃に読んだ漫画の台詞が脳内で繰り返し呼び起こされました。
「なんだ……? お前だって肉食ってんじゃないか。そのソーセージはブタかウシだ」
『修羅の門』
「一緒にしないでよ。ずっとイルカのほうが賢いのよ。友達になれるの、彼等は」
「ブタやウシは友達にはしてもらえないのか?」
「ブタやウシはいくらでも増やせるもの」
「オレはどっちにも友達はいないが……どうせ人間に食われるんだったらクジラになりたいね。食われるために育てられ、何もわからないまま友達だと思ってた人間に殺される。ブタやウシにしてることのほうが残酷だと思うぜ……オレはね」
「なんですって……!」
「クジラやイルカは食われたとしても、それまでは自由に大海を泳いでたんだ。捕まったのは運と力がなかったからさ。ブタやウシと、クジラやイルカとの間に決定的に違うことが一つある。戦うチャンスすら与えられない者と……戦って敗れることのできる者。オレにはこの差はでかい……と思うぜ」
陸奥九十九のこの台詞は、成長過程だった僕の意識の深層領域に刻み込まれました。
僕が繁殖犬の保護活動に傾倒しがちな理由も、突き詰めれば、こういう無意識に根づいた思想的な何かに起因するのではないかと思うのです。
狭い犬舎に閉じ込められ、自由もなく、戦うチャンスすら与えられず死んでゆく繁殖犬達。
それを思えば、戦って死ぬことのできる野良猫がどれほど幸せか。
そしてノイヌやヤマイヌ――自然の中で生まれ、野生で育ち、人間社会に一切関与せず生きている「野犬」の生き様は、むしろ誇り高く美しいとさえ感じます。
転じて、では僕が遭遇したあの子達はどうでしょうか?
親が捨てられたイエイヌだったとしても、その子孫が数世代に渡って完全に野生化を果たした「野犬」でしょうか?
とてもそうは見えません。
あの子達は「捨て犬」――人間のエゴの犠牲者でしかないと思います。
動物達に望まぬ過酷な戦いを押しつけるのは、美しいどころか人間の醜さを際立たせるだけです。
野犬保護は個人でどうにかできる問題ではないので、団体としてどうするか、善い方向に話が進むよう尽力致します。
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