僕がパピーミルに勤め始めた2020年、最初に散歩に連れて行った子が倉之助でした。
当時は違う名前でしたが、まだ目は見えていたし耳も聞こえていました。
僕は倉之助を連れて繁殖場の周りを歩き、その後持参したシャンプーで洗いました。
何百頭もいるうちの1頭を贔屓しているみたいですが、最初の1頭が倉之助だったことは今も憶えています。
そして、先輩従業員に「やるならシャンプーではなく毛刈りをしてほしい」と言われたことも覚えています。
毛刈りというのは、バリカンで全身の毛を刈る、つまり丸狩りにすることです。
空調も何もない群馬の夏を乗りきるには、毛刈りは命に関わる重要なことであり、パピーミルで数百頭のお世話をするというのはこういうことなのだと、思い知りました。
倉之助がいた犬舎は建物の2階で、そこには♂犬がおよそ30~40頭、詰め込まれていました。
コインロッカーのように並んだ扉の中に、すのこと新聞紙だけが敷かれた空間があり、犬種も年齢も異なる様々な子達はほぼ24時間――ほぼ一生を、そこで過ごすことになります。
見えるのは、四角く切り取られた空だけ。
流れる雲も、降り頻る雨も、舞い落ちる雪も、空を翔ける鳥も、四角い景色の中の無感情で無意味な、名前のないモノ。
彼はただ、檻の中からその切り取られた景色を、15年間眺め続けました。
灰色の夢しか見られない《在るべき犬生を送れない哀しい命》達は、四角い空にどんな夢を馳せたのでしょうか?
僕がいた3年の間にも、多くの子が亡くなりました。
倉之助と同じ犬舎にいた「しらちゃん」というミニチュアダックスフントの♂の子は、歩けなくなり弱っていたため、僕は家に連れて帰るつもりでした。
あの子のために車椅子も作っていました。
ピクシーに作った車椅子は、当初しらちゃんのために作るはずでした。
結果的に間に合わず、しらちゃんは亡くなってしまったのですが……。
僕がしらちゃんを連れて帰りたいと先輩に話した時に、「仲間達がいるこの犬舎で最期を迎えさせたほうがいいのでは」と言われ、確かにそういう考えもあるのかもしれないと思いました。
でもやっぱり僕は、しらちゃんを最後の時間だけでもイエイヌとして死なせてあげたかった。
繁殖犬のまま死んで行くなんて、あまりにも寂しすぎるじゃないか。
せめて、最後だけでも……。
パピーミルを辞め石松家を始めた時、僕は倉之助を真っ先に保護しました。
15歳になっていた倉之助をレスキューしても、里親が見つかる可能性は限りなくゼロに近いのはわかっていました。
看取りでもいい。
あの場所で死なせるくらいなら、僕の家で死なせる。
ただそんな思いでした。
赤城山の空は、全天に広がっています。
あの犬舎の檻の中から眺めていた、四角い空とは違います。
光も音も失ってしまった倉之助に、どうか少しでもこの空の広さが伝わりますように。
本当は、世界は切り取られてなんかいなくて、お前はどこにだって行けたし、どこまでも自由なはずだった。
不自由の中、15年間の戦いを強いられた倉之助は、不幸で可哀想だと僕は思います。
この子を励まして、勇気づけて、元気にしたい。
そう思っていたはずなのに、倉之助を見ていると、なんだかこっちがパワーをもらえるのです。
倉之助は、すごい。
人のエゴに体の自由を奪われようと、生き方を奪われようと、この子の魂の自由は、生き様は、誰にも奪われてはいなかったのです。
なんてこった。
すごい奴だ、お前は。
「スゴ味」を感じる男、倉之助。
スゴ味倉之助の勇姿に、心を打たれたことは一度や二度ではありません。
石松家に来て1年5ヶ月。
そんな倉之助に、ついに幸せの縁が繋がりました!
ご家族様にはなんとお礼を申し上げれば良いか、言葉が出てきません。
タルちゃんだけでなく先住犬のルイ君もいますし、その上でもう1頭となるとこれはなかなか大変な覚悟が必要だったはずです。
本当にありがとうございます!
イエイヌとして生まれたはずなのに、イエイヌでいられたことなんて全くなかった15年。
石松家にいた間も完璧な環境ではなかったため、倉之助はこの日初めて、本当の自分として生まれたのだと思います。
16年かかったけれど……遅くなってしまったけれど――
おめでとう! 倉之助!
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